Palazzo del BÒ

パラッツォ・デル・ボー

Palazzo del Bo(2138 byte)

ガリレオも教壇に立ったイタリアで2番目に古い大学

見学時間
3~10月
15:15/16:15/17:15 月・水・金
9:15/10:15/11:15 火・木・土
見学時間
11~2月
15:15/16:15 月・水・金
10:15/11:15 火・木・土
休館日
日曜及び祝日 12/25,26,31
電話
049 827 5111
見学料
5ユーロ
見学に関して
見学はすべてガイド付き。見学時間はおよそ40分間。 予約は特に必要なく、見学開始時間の5分ほど前にチケット売り場前で待ち、チケットを購入する。(ガイドは時間間際に来ることが多い) チケット売り場は建物敷地内、表示される方向に進む。少々解りずらいが、建物の奥にバール兼タバッキ(タバコ屋)がある場所を目指すと良い。
 
ガイドの言語はイタリア語、英語、ドイツ語。チケット購入時に希望言語を告げること。
内部での写真撮影、携帯電話の使用は禁止。
参考
パドヴァ市 HP
パドヴァ大学 HP
行き方
駅よりCorso del Popolo~Corso Garibaldiを南下、徒歩15分弱(1km)。
駅からはバス・トラムで「Ponti Romani」にて下車。(約5分)
Via Eremitaniの市立美術館入り口を目指す。
バス
平日: 3, 11, 12, 13, 16, 18, 22, 24, Tram(da controllare)
日・祭日: 3, 11, 12, 13, 22, 43, Tram(da controllare)

Palazzo del BÒ

パドヴァ大学の建物の一部。『ボーBÒ』というのは"牛"を指す"ブエBue"のヴェネト訛りの言葉。大学がこの地を構えた時代には、近くに牛屋通りがあり、ここにあった建物は当時宿泊施設としてシンボルマークを牛としていた(現在のパドヴァ大学の校章)ことから。ラテン語でその当時はホスピタル・ボヴィスHospitium Bovisと呼ばれていた。

大学の歴史は古く、パドヴァにおいてその原形が築かれたのは1222年。イタリアではボローニャに次ぐ第2番目の大学として知られている。その当時のボローニャ大学の教授や学生ら有志が、戒律のない更なる自由な学問・思想・文化交流の場を求め、この地に辿りついたことからその歴史が始まる。
大学として体系化されたのは1399年とされ、哲学・医学部と法学部の2部構成だった。
同大学の特徴のひとつとしては、宗教や民族の壁を持たなかったこと。ヨーロッパでは初のユダヤ人の受け入れをした大学であり、戒律の厳しいカトリックの国では稀な存在でもあった。

400年代以降つまり15世紀より、2-3世紀に渡る間は、この地がヴェネツィア共和国下であったという背景(カトリック教会からの圧力からの保護があったことなど)から、大学としての個性化及び進化が著しい時代だったとされている。 特に医学、解剖学の分野における進歩は目覚ましく、その中でもこの大学において偉大なる業績を残した人物は、1592-1610年に同大学にて教壇に立ちながら自身の研究を続けたガリレオ・ガリレイだ。
現代医学に偉業を成し遂げたとされ、1545年に開園した大学付属の植物園『オルト・ボタニコOrto Botanico』が薬草研究のために発足した、というのと同歩している。
また、1595年に完成した世界初の人体解剖室を持ったことも大変有名。医学の分野としてはもちろん、広範に学問の現代的発展においても影響のある大学のひとつとして、同学独自なる画期的学問の分野を切り開いた場であったことが窺える。

その後、800年代直前のヴェネツィア共和国の終焉とともに、大学はイタリア国家下に置かることとなる。大学の多くの教授及び生徒たちはそのころに起こった運動、雲気であるイタリア国家統一運動であるリソルジメントに積極的に参加。 1848年2月8日に対オーストリア軍にパドヴァの、イタリアの独立を求めて戦った日として現在でもこの日はパドヴァ大学、そして地元人パドヴァーニにとっては大切な記念日ともなっている。この日を記した通りの名が残る"1848年2月8日通り Via 2 febbraio 1848" はまさしく同建物が面する通り。 その後も世界大戦中には対ファシズムの動きをとるなどの社会的・思想的な自由を掲げるという同大学ならではの堅固な姿勢を取り続けてきた。

現在残る建造物の主要なものは1542-1601年に建築されたもの。ベルガモ出身の建築家、アンドレア・モローニにより建設が始まった。彼の亡年1560年以降はヴィチェンツァで活躍した建築家、ヴィンツァンツォ・スカモッツィがその仕事を受け継いでいる。
中庭から続く階段、そして美しい柱廊を配したネッサンス様式が特徴だ。 もちろん、現在でも現役として使用されている。教室及び、ラウレア(卒業)もこの建物内にて行われ、また大学関係を問わず、重要な会議なども行われる部屋もある。これらの一部は一般公開されており、見学が可能。

建物内の見学としての最大の見所は、もちろん世界初の解剖教室。テアトロ・アナトミコTeatro anatomicoと呼ばれるこの部屋は、1594年に建築された、逆円錐型6階楕円状の木造らせん階段教室。最大300名収容のこの階段教室はその当時、もちろん空調設備どころか窓もなく、明かりといったら生徒自らが手に持つロウソクの灯り。おまけに死体の人体解剖であるから、酸欠やら何やらで倒れる人が続出したのだという。 ちなみにそういった理由からも解剖は冬期のみ催行され、そして300名という数字はあくまでもやせ形の学生300人、に違いない。

現在は解剖台があった場所には重ねて床が貼られ、その当時のままの姿を見ることはできないが、当時は逆円錐の頂点の部分に台をおき、解剖した肉片などをそのまま流せるように、下は川の水をひいていたのだという。 それを300人の学生たちが上から覗きこんでいたのだろうが、実際にその部屋の内部は、意外にも小さく、そしてそのらせん階段にぎゅうぎゅう詰めに並んで立っていた学生たちが握っていたであろう手すりというのは、大変に美しい彫りが施されている。

建物内の見学には、同大学にて物理、数学を教授したガリレオ・ガリレイが実際に立っていた教壇も見ることができる。歴史ある部屋の数々、フレスコ画を観ることができる、興味深い場所だ。
そして、ここパドヴァ大学にて1678年10月、世界で初の女性として大学を卒業した、エレナ・ルクレツィア・コルナーロ・フィスコピアElena Lucrezia Cornaro Piscopia氏の哲学博士としての記念碑も残る。