パドヴァの南西30kmに位置し、ヴェローナ県、ヴィチェンツァ県、そしてロンバルディア州マントヴァ県との県境に近いモンタニャーナは、その位置的性格上、常に防衛機能を持たざるを得ませんでした。
24ヘクタールの規模の街を内包する、600mx300mの長方形の輪郭を持つ周囲2kmの城壁は、厚さ1m、高さは6.5~8mで、間に塔を24持ちます。
戦いの歴史と切り離されない街ですが、ドゥオモのそびえる中心部の広場は優雅な独特のたたずまいを見せます。
地元の特産物、生ハムの祭りが5月に、また8~9月には10地区で競うパリオが開催され、その際には中世の仮装行列も見られます。
古代
日本人には少し発音のしにくいこの街の名前は、ローマ時代の石碑に書かれているMotta Eniana(Aenianusの街の小高い丘)に由来しており、また新銅器時代などの遺物により、原始時代から居住地区であったことがうかがえます。
589年のアディジェ川の大氾濫までは、街をその川が横切っていました。そしてその川にかかる橋が、モデナからパドヴァ、アルティーノを結ぶ道にあったために、街としても栄えていたようです。
その後、モンセーリチェの教会区として、そして5世紀にはラヴェンナの防衛拠点、アディジェ川の氾濫後は、ビザンチンに対抗するためのロンゴバルド族の重要な境界戦略地となりますが、9~10世紀のフン族の襲撃のたび、防衛設備を整備しなおすのでした。
中世
1000年よりトスカーナ地方の有力貴族オベルテンギ家が街に住むようになります。
一方、中世の、支配者がめまぐるしく変わるこの頃は、住民や周囲の肥沃な土地で収穫される農作物の貯蔵のために街の構造が大いに役に立ちました。
1242年、パドヴァのそしてモンタニャーナを所有していたエッツェリーノ3世が、街に火を放ちます。そうして、彼の思うように、サン・ゼノ城の塔、城壁を築きました。 彼の失脚後は、コムーネ・パドヴァの勢力圏内となり1275年に東西の城壁が増強されました。14世紀の領主制の頃には、ヴェローナに対するパドヴァの前哨地点となりますが、ヴェローナのデッラ・スカーラ家に約20年支配されるときもありました。 再びパドヴァのダ・カッラーラ家の手に渡り、街の残りの城壁部分をアルベリの塔の完成とともに1362年城壁を完結させます。
1405年、ダ・カッラーラ家の終焉に従いモンタニャーナはヴェネツィア共和国の支配下となりました。共和国の艦隊に必要なロープ類の材料となるジュートの栽培により、街は発展してきます。
近世~現代
カンブレイ戦争(1508-1516)では、その防衛機能をもつ街というだけで、戦闘の場にもなるのですが、1300年代の城壁ではすでに砲弾に対しては不十分でありました。
ヴェネツィア共和国のもと、ルネッサンス文化を迎えた街は、多くの芸術家を呼んで貴族の館やドゥオモ等、数多くの建物が建てられ、その優雅な文化を享受します。
1797年のヴェネツィア共和国崩壊後は、他のヴェネトの街同様、1866年までオーストリア・ハンガリー帝国の支配後、イタリア王国に組み込まれました。 一方、1800~1900年代は、街は農業、文化、政治の中心として栄えたのでした。 戦後、農業の不振により、仕事を求め街の人口は流出していきます。最近は、手工業の復活・商業分野における躍進、そして中世の城壁が残る街としての観光業によって、街に活気が戻ってきています。
城壁
モンタニャーナの街を囲む市壁は、996年の資料によると、もともとは東方からの侵略に対し、強化された中世初期のものがはじまりです。当時は、土手、柵、水郷、棘の植物などによって外敵から守っていたようです。次第に高さのある壁や橋、やぐらなどの戦用の装置も加わっていきます。現在見られるものは、1300年代のパドヴァの支配者Da Carrara家が、Della Scala家のヴェローナに対する境界上の防衛基地として完成させました。
間に立つ塔は、何層もの床をもち、兵士の駐留、食料などの備蓄場所として使われていたようです。壁の周囲は、現在は草原となってますが、昔は、ヴィチェンツァ県との境界のFrassine川から水を引いた堀となっていました。
難攻不落の要塞は、16世紀に起こった火事で大きな被害をこうむったようです。
城壁の上部を飾るメルリ(狭間胸壁の凸部)は、グエルフォ型です。これは建設当時の中世において、その建物(ここでは街)の持ち主が、グエルフォ(教皇派)かギベッリーニ(反教皇派)かを示していたといわれます。
1500年代には、その市壁を含むカステッロ・サン・ゼーノの風景素描がジョルジョーネによって描かれています。(ロッテルダムのボイスマン美術館所蔵)
市壁内に通じる門は、当時はパドヴァ方向(東)のカステッロ・サン・ゼーノの門とヴェローナ方向(西)のロッカ・デッリ・アルベリの門、2つのみでしたが、1500年代にヴィチェンツァ方向(北)に三番目のポルタ・ノーヴァが、水を引く運河に追従して開けられます。最後に、19世紀末、鉄道の敷設によって南側に門が設けられました。
サン・ゼーノ城
このカステッロ(城)は、トスカーナの貴族ウーゴ・イル・グランデに続くエステのマルケーゼ家の居住地として中世に建設されたのが始まりです。
現在の姿の大部分は、要塞機能を強化したいがために、1242年にエッツェリーノ3世によって意図的に火が放たれ、その後再構築されたものです。2つの塔とマスティオ(主要の塔)及び中庭をもつ長方形の形をしたこの建物は、16世紀始めまでは周囲を堀に囲まれ、孤立していました。門の機能を持つ前には、跳ね橋によって中庭~街へと人々を導いていましたが、監視を強化するためにマスティオのそばにアクセスルートが移され、それが門となったようです。
アルベリ城塞
レニャーゴLegnago門とも呼ばれるこの要塞は、カステッロとは建設目的が大きく異なります。パドヴァ門とも呼ばれるカステッロの目的が、住まいであり、パドヴァの支配者の権力を示すことだとすると、アルベリ要塞のそれは、単なる街内への通門の1つを守る、というだけではなく、「防御」という絶対使命を全うさせた造りでした。これはダ・カッラーラ家のフランチェスコ1世の望みでもあり、1360年から28ヶ月の歳月をかけて完成させました。
建物は、3つの部分、アンドローネ(通廊)、小塔そして大塔からなります。防備された通廊の両端には、簡単に封鎖を可能とする、跳ね橋と落とし格子を持ちます。その昔は、この建物自体が堀に囲まれ、街とは切り離されており、相当用心深い造りだったのでしょう。
この門の出口には、3つの紋章が、竣工を祝った証文とともに見られます。ダ・カッラーラ家の車輪の紋章、パドヴァの街の十字の紋章と、フランチェスコ1世の兜の個人的な紋章です。
大塔は、窓のない低層部は倉庫・機密部屋として使われていたようです。小窓の数や倉庫の大きさから、非常事態時でも駐屯隊が6ヶ月以上耐えられうる生活必需品が確保できていたと考えられています。
この建物近辺の市壁が中でも一番古いということがわかっています。レンガだけの造りで、際立つ塔も置かれず、見張り台が2ヶ所あるのみ。歩行可能な部分もありません。おそらく張り出した廊下が木造で取り付けられていたのでしょう。門も、ありませんでした。しかし1317年、ヴェローナの支配者カングランデ・デッラ・スカーラがこの街を支配することになります。このときヴェローナの支配者にとって都合のよいこの部分に初めて穴があけられたのでした。市壁にとっては、カステッロ部分に次いで2つめの門でした。木造の設備が多かったこの周辺も、敵対の最前線となるために、破壊されにくく燃えにくい、石やレンガに取って代わっていきます。
ドゥオモ/p>
建設開始が1431年、完成が15002年。1400年代は、まだヴェネトではゴシック様式にて特徴づけられていましたが、1500年にもなるとルネッサンス様式が圧倒的な地位を固めていきます。そのような過渡期に建設、、、、2人の建築家の異なる感性の融合によるこの芸術作品の内部・外部において2つの様式の著しい違いが見て取れるでしょう。
見学時間:内部にて展示会のある時、または予約のみ(観光案内所にて)。
マルタの塔
パドヴァ門にもたれるように建つのが、マルタの塔。1251年にこの地域一帯の支配者だったエッツェリーノ・ダ・ロマーノによって建てられ、地下牢獄として捕虜が収容されていました。捕虜たちは空腹で亡くなっていきました。この彼の非道さは、ダンテの「神曲」に引用されているほどです。1256年パドヴァにエッツェリーノが捕獲された時、市民によって牢獄が開け放たれ、女性を含めた100人余りの捕虜が解放されたといいます。現在は、城壁散歩の出口として、また考古学博物館を併せ持つ複合施設として利用されています。
見学時間:城壁散歩と同じ。
サンタ・マリア・
デル・トッレジーノ教会
パドヴァ門の、マルタの塔の横の道を挟んで反対側に建つのが、この教会。パドヴァ門の鐘つきの塔(Torresino)の隣に建っていたことからこの名前がつきました。実際は城として建設され武器倉庫に使用されていたようです。内部には木製のキリストの十字架、中世の大理石の水盤がみどころ。
見学時間:内部にて展示会のある時、または予約のみ(観光案内所にて)。
タヴェルナ・デッリ
アルティスティ
街の喧騒を抜けて一歩奥に入ったところに佇むタヴェルナ。田舎風インテリアで落ち着く店内は、忙しくカメリエレが働く気持ちのよい空間。メニューは地元料理とナショナル料理をベースに少し手をかけ創作を組み入れた構成。もともと額装のアトリエだったこの建物にはアーティストがよく集っており、その歴史を引き継いで店内を絵画や彫刻などで埋め尽くし、それらに囲まれながらアートと称される料理を楽しむというコンセプト。
住所:via Mura rotta, 9 | 電話:049.9402317 | 定休日:月曜夜と火曜
エノテカ・リストランテ
イ・ベイ
住所:Piazza Scalco, 10 | 電話:049.9403500 | 定休日:土曜昼
夏季(4月~10月)
火~土9:30~12:30/16:00~19:00 - 日10:00~13:00/16:00~19:00
冬季(11月~3月)
火~土9:30~12:30/15:00~18:00 - 日10:00~13:00/15:00~18:00
電話FAX:0429.81320 | mail: ufficioturistico@comune.montagnana.pd.it
電車で » TRENITALIA
パドヴァから普通電車で約50~60分(Monselice乗り換えの場合もあり)4.10ユーロ
バスで » SITA
パドヴァから約1時間20分