04.お勧めの歩き方~文学編

ドゥオモ地区からコースを始めましょう。
Dietro Duomo この界隈は、ヴェネツィア共和国になる前の自治都市時代の1318~1405年にパドヴァを支配していたダ・カッラーラ家が行政を行っていた重要な地区でした。 彼らは、芸術を愛し、パドヴァに文化を花咲かせ繁栄させた偉大な一族でありました。

ちょうど、Via Dietro Duomo、ドゥオモの裏通りと呼ばれる通りの28番地にあたるこの場所は、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)が、ヤコポ・ダ・カッラーラの友人でもあるパトロンの保護の下に住んでいた住処からも程遠くなく、 ペトラルカによって友人のボッカッチョが招かれた場所であります。そして1351年の春、ボッカッチョはその思い出を以下のようにしたためたのでした。

「やがて夕方になる頃、一仕事を共に終えてから君の小さな庭に行ったものだ。春になったばかりだというのに、既にそこは色とりどりの花や木々に飾られていたね、、、 そして僕たちは座って互いに語り合っていたものだ、日が落ち夜が更けるまで。」

ドゥオモと洗礼堂、ドゥオモ広場 また、ペトラルカはそこからちょっと東の、ドゥオモに付随する司教館(現在は美術館Museo Diocesano)にある司教のサロン(Salone dei Vescovi)にもよく訪れていたようです。
この美術館には、ペトラルカの肖像画が残されています。彼の肖像画はまた、ドゥオモの洗礼堂(Battistero)にも見つけることができるでしょう。

画家ジュースト・デ・メナブオイのフレスコ画によって内部を覆い尽くされた洗礼堂の北側の壁に描かれている「中風患者の奇跡」の中にペトラルカを見出すことができます。(入口は東面)

ロッジャ・デイ・カッラレージ 3つ目の彼の肖像画は、パドヴァ大学リヴィアーノ館付属の「巨人の間」(Sala dei Giganti)にも見られます。おそらく画家アルティキエーロによって描かれた、アルクア・ペトラルカの彼の書斎風景です。
リヴィアーノ館へは、ドゥオモ広場からは、1630年のペスト鎮静に尽力を注いだヴァッラレッソを称えたヴァッラレッソ門(1632)、画家グアリエントの作品(1354)が残るダ・カッラーラ家の邸宅ロッジャ・カッラレージを見ながら、カピタニアート広場へと歩を進めましょう。

そのペトラルカがパドヴァに滞在した約50年ほど前に、流浪中であったダンテ・アリギエーリもパドヴァに滞在していたことは恐らく確かなことでありましょう。
2つの広場(デイ・フルッティとデッレ・エルバ)の向こうのサン・フランチェスコ通りにある、ダンテの住まいであったといわれるロマニン-ヤクール館(palazzo Romanin-Jacur)の壁面には、「ここにて、戦いと復讐がダンテを救った~1306」という歴史家カルロ・レオーニによる碑文が掲げられています。

ジョット(プラート・デッラ・ヴァッレ) ダンテ(プラート・デッラ・ヴァッレ) パドヴァで彼は、同年代であり同郷人でもあった画家ジョットとも会っていたことでしょう。そしてまた、スクロヴェーニ礼拝堂の偉大な一連のフレスコ画もその作業時に見ていたに違いありません。
サン・フランチェスコ通りからは、ポンティ・ロマーニ通りを歩ききったところに、その礼拝堂は佇みます。

フレスコ画の様々な人物の中には、ダンテも登場しているのかもしれませんね。礼拝堂入口壁面に描かれた「最後の審判」の壮大なる宗教的ドラマの絵画仕立ては、ダンテ風でもあるのですから。

礼拝堂を出て、エレミターニ教会へ入りましょう。
内部では、画家グアリエントやジュースト・デ・メナブオイの作品が見られます。1944年の空爆から修復を終え復活したマンテーニャ他の作品がおさまる礼拝堂も必見でしょう。 また内部に眠るパドヴァ領主ヤコポ・ダ・カッラーラの石棺には、かつて保護をうけた友人ペトラルカによる16行の詩篇が刻まれています。